
この度ギャラリー碧では菊地匠の4回目の個展を開催いたします。
1991年栃木県足利市生まれ。2015年東京芸術大学美術学部日本画専攻卒業。2017年同大学大学院美術研究科芸術学専攻修了。現在は東京、足利にて制作。
菊地匠のワイプオフをはじめとする自身の関与を抑える手法が、本展では空白の作成へと向かった。
新作であるカラバッジオ『聖マタイと天使』、マネ『オランピア』のオマージュ作品を原作と見比べると、元の対象物が大胆に切り取られていることが分かる。その手法は削除や切り抜きといったデジタル処理の技術を彷彿させる。そしてキャンバスに広がる余白からはデザイン制作に使用されるアプリケーションの『アートボード』のような空間が想起される。アートボードは絵画における支持体とはまるで別物で、そこで構成されたオブジェクトは何度でも簡単に「なかったこと」にできる。また、菊地のそれはもの派における空白とも違い、素材や自然に回帰することを許さない。
“深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている” 哲学者ニーチェのいう深淵のごとく、菊地の空白は自己の不在を究極に押し進めたものといえるかもしれない。
ここから見えてくるものはなにか。本展の詩作で菊地が指摘する顔と絵画の「類似性」にその一端が現れる。菊地は前個展『In platea』刊行誌の中で絵画における自律性をマネの画中に認めた。19世紀パリを舞台に、虚ろな表情の人物を描き続けた大作家の作品から都市に自由が浸透する一方、人々が自らの生を自ら受け止めざるを得なくなった背景を読み解いた。つまり、絵画が不可逆的(元に戻らない、一方的)な性質を帯びることを挙げたわけだが、顔という器官もまたそれを強く示唆すると菊地はいう。
20世紀フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスによれば、顔は地位や属性、服の着こなしといった社会性をまとうことなく人の本質をありありと表現する。つまり顔は顔であるだけで意味があるという。
曖昧な表情とは主題を持たない人の本質を表しているともいえ、不可逆的な存在とはまさに人の生そのものといえる。ではこうした生を菊地は自作でどう表現したか。
詩作には花や天使、巨人であるアトラスが人知れず佇む様子が読まれる。世界と自身とを隔てる煉獄のような空白、そこで露わになる現実への強い衝動や生への渇望。それらが行き場もなく永遠に彷徨うものとして描かれる。ここにこそ菊地の真骨頂が見て取れるのではないか。
神なき時代、それは過剰で痛々しい現実を媒介せずには生を実感できない時代ともいえる。であるならば菊地のように遠く生の鼓動を聞きながら、日常に転がる会話や記憶の断片を拾い集め、記録する行為を今、尊く想う。
会期 4月28日‐5月10日
定休日 5月4日
時間 10:00-18:00